東京地方裁判所 昭和40年(ヨ)2260号 決定 1966年12月13日
債権者
秋山寅松
(外一三九名)
右代理人
尾崎陞
(外四名)
債務者
日本ロール製造株式会社
右代表者
青木運之助
右代理人
和田良一
外五名
主文
債権者らがそれぞれ厚生年金保険及び健康保険の取扱上、労働契約にもとずき債務者に使用される者であることを仮に定める。
理由
一、当事者双方の求める裁判
債権者ら―「債務者が債権者らに対し昭和四〇年六月三〇日なした解雇の意思表示の効力を仮に停止する。」との決定<中略>
二、当裁判所の判断<中略>
(二) 解雇の経緯及びその効力
1 解雇の経緯に関し、当事者間に争いのない事実及び疎明により一応認められる事実は次のとおりである(括弧内は法律関係を示す)。
会社は厚生年金保険法六条及び健康保険法一三条に該当る事業所の事業主であつて、債権者らは会社に使用される者として厚生年金保険及び政府管掌健康保険の被保険者であつた(すなわち会社は、被保険者たる債権者ら及び事業主たる会社の各負担すべき右各種保険の保険料を毎月政府に納付する義務を負うが、そのうち被保険者負担額((保険料は被保険者と事業主との折半負担))を、被保険者たる債権者らに支払うべき賃金から源泉控除する等の方法により取立てることができる関係にあつた((厚生年金保険法八二条ないし八四条、健康保険法七二条、七七条ないし七九条))。ところが、組合はその執行委員長はじめ組合三役及び執行委員を含む三三名に対する懲戒解雇処分の撤回を要求して昭和三八年二月五日からストライキを実施し、その組合員たる債権者らはすべて、これに参加して現在に及んだ(従つて、この間会社が債権者らに支払うべき賃金債務は存しない。)。
会社は右ストライキ中も、事業主として債権者らを含むストライキ参加者のため右各種保険の保険料の事業主負担分及び被保険者負担分を政府に納付し、昭和四〇年五月までの納付額合計は一二、四三三、〇五〇円、そのうち債権者ら負担分は五、五七三、七四五円に達し、債権者らを含むストライキ参加者から、その負担分の償還を受けるにつき、源泉控除の対象とすべき賃金債権がないところから、同年六月初旬債権者らを含む組合員一七九名に対し別途弁済方を催告したが、右組合員らが応じないので、その被保険者たる資格を喪失させることにより、将来において右各種保険の保険料の納付義務を免れるため、右組合員ら中、会社を退職した八名を除き、債権者らを含む一七一名との雇傭関係を一旦終了させることとし、同月二二日これに対し同月三〇日附をもつて解雇の意思表示をし、併せて就労の申出があり、その意思が確認されたときは右解雇の取消又は再雇傭の処置をする旨の意思を伝達した。
2 考えてみると、前記各種保険の被保険者たる債権者らは事業主たる会社において納付した保険料のうち自己負担分を直ちに会社に償還すべき義務がある(厚生年金保険法八四条、健康保険法七八条の源泉控除の制度は右償還義務の履行を簡素化するため労働基準法二四条の特則を定めたものにすぎない。)が、右償還義務は被保険者と事業主との間の労働契約の要素ではなく、その附随的義務に属する。そうして、法律が債務の不履行による契約の解除を認める趣旨は、契約の要素をなす債務の履行がないため該契約をなした目的を達することができない場合を救済するためであるから、当事者が契約をなした主たる目的の達成に必須的でない附随的義務の履行を怠つたに過ぎないような場合には、特段の事情の存しない限り、相手方は当該契約を解除することができないものと解すべきである。従つて、会社が過去に発生した債権者らの前記保険料償還義務の不履行によつて経理上著しい負担を蒙り、経営に困難を来たしたことの疎明がない本件においては、右にいう特段の事情があるとはいえず、会社は右附随的義務の不履行を理由として債権者らを解雇し得ないことは勿論である。会社の就業規則の定める前記解雇事由(編注「やむを得ない業務上の都合によるとき」)も右のような場合を予想して、そのような場合における解雇権を留保したものとは解し得ない。
ただ、会社が債権者らを解雇したのは将来の保険料納付義務を免れる目的に出たものであること、前期認定のとおりであつて、単に右に示した債権者らの過去に負担した附随的義務の不履行だけを理由とするものではないが、会社において将来債権者らのストライキ中止、就労の時期までに債権者らのため保険料を納付する負担により、会社の経理に圧迫が加わり、経営に著しい障害が存することについては、格別疎明はない。してみると、右解雇の事由は将来債権者らについて発生すべき保険料自己負担分の償還という附随的義務の不履行を予想し、これを理由とするにほかならない以上、前段説示の趣旨を類推するのが相当であつて、右のような事由は右就業規則上の解雇事由には該当しないというべきである。
従つて、会社が債権者らに対してなした解雇の意思表示はほかに特段の事情がない限り、権利の濫用にあたり、その効力を生じる由がなく、債権者らは、なお会社に対し労働契約上の地位を有し、その故に会社に使用される者として前記各種保険の被保険者たる資格を有するものといわなければならない。
(三) 仮処分の必要性
疎明によれば、会社は厚生年金保険及び健康保険の事業主たる資格において昭和四〇年七、八月中東京都知事に対し、債権者らが前示解雇により右各種保険の被保険者の資格を喪失した旨の届出及び報告をなし(厚生年金保険法一四条二号、二七条同法施行規則二二条、健康保険法一八条、八条同法施行規則一〇条の二)、東京都知事は同年九月三〇日右資格喪失を確認した(厚生年金保険法一八条健康保険法二一条ノ二、二四条同法施行令二条一号)ことが一応認められるから、債権者らは東京都知事の右確認により右各種保険の保険給付、例えば債権者らの死亡に伴う厚生年金保険の遺族給付、債権者ら又はその被扶養者の死亡、疾病、分娩に伴う健康状態の保険給付を受け得なくなつたものであり、又疎明によれば、債権者らは会社から支給される賃金をもつて生計を立てていたところ、前記のようにストライキ実施中のため、臨時のアルバイト等により急場を凌いでいるものであることが一応認められる以上、保険事故が債権者ら又はその被扶養者に発生した場合忽ち、債権者ら又はその遺族においてこれに対応する出費に窮する事態に陥ることは推認するにかたくないのであつて、ただ今これを避けるため仮処分命令を必要とする実情にあるものといわなければならない。
もつとも、健康保険の被保険者の資格の喪失は同時に国民健康保険の被保険者の資格取得の原因である(国民健康保険法七条)から、債権者らは右資格取得の届出を行なうことにより(同法五条、七条、九条、同法施行規則三条)前示保険事故が発生しても、なお国民健康保険による保険給付を受けうることにはなるであろう。しかし、もともと健康保険の被保険者たる資格を有すべき債権者らに国民健康保険の被保険者資格があるわけではないから、その資格取得の届出を期待するのは無理である。加えて、健康保険と国民健康保険との保険給付の内容を比較検討すれば次のような差異が存する。
健康保険法(以下この段において法という)による保険給付
1 被保険者が診察、薬剤又は治療材料の支給、処置、手術その他の治療を受けた場合、被保険者の負担すべき一部負担金は初診の際一〇〇円、病院又は診療所への収容の場合、一部負担金は一日につき三〇円、従つてその余の部分が保険給付の対象となる(法四三条八)。
2 傷病手当金(標準報酬日額の一〇〇分の四〇又は六〇)という保険給付がある(法四五条、四六条)。
3 被保険者及び被扶養者の埋葬料、分娩費、育児手当金という保険給付がある(法四九条ないし五一条、五九条ノ三及び四)。
国民健康保険法(以下、この段において法という)による保険給付
1 世帯主が上記の各給付を受ける場合の一部負担金は一〇分の三(但し、減免可能)である。従つて、その余の部分が保険給付の対象となる(昭和四一年法律七九号による改正前の法四二条及び法四三条ないし四五条)。
2 傷病手当金という保険給付を行なうか否かは任意的である(法五八条)。
なお、東京都特別区においてはこれを行なわない(東京都の特別区国民健康保険事業調整条例)。
3 葬祭費、助産費という保険給付を行なうか否かは任意的である(法五八条)。東京都特別区においては、これを行なう(右条例二条)。
すなわち、国民健康保険の保険給付は健康保険のそれに比しきわめて劣るというべく、その給付の差は債権者らの前記のような生活状態からみて、疎かにはできない。
また、会社は、債権者らにおいて会社の納付した保険料の自己負担額を支払い、かつ将来の債権者らの保険料の負担額を支払うというのであれば、直ちに解雇の意思表示を撤回し、改めて東京都知事に対し厚生年金保険及び健康保険の被保険者の資格取得確認の手続をとる意思がある旨主張するが、さきに説示したように債権者らは会社がなした解雇の意思表示に拘らず、なお会社との間に労働契約上の地位を失わず、会社に使用されるものとして右各種保険の被保険者資格を有する以上、本来会社は債権者らのため、その資格取得確認の手続をなすべきものであつて、債権者らの保険料自己負担額の償還は二の次の問題にすぎず、会社の右主張は本末顛倒の論議たるを免れない。
従つて、結局、前記のような仮処分の必要性を否定する事情はないものというべきである。
(四) 結 論
そうして債権者らが保険事故の生じた場合、保険給付を受けられるようにするための救済手段として、債権者ら自身において東京都知事の前記確認処分に対し不服申立をなし、又は東京都知事に対し被保険者資格の確認請求(厚生年金保険法三一条健康保険法第二一条ノ二)をなす途があるにしても、右手続中において会社の反駁等のため救済の実現が困難になることもあり得べきであり、それよりも会社が事業主として、東京都知事に債権者らの被保険者資格取得の届出又は報告をなすに越したことはないが、これとて会社の意思行為を持たなければならないから、いずれにしても右手続上、会社の任意の行為を期待する趣旨において、債権者らがそれぞれ厚生年金保険及び健康保険の取扱上労働契約にもとずき債務者に使用されるものであることを仮に定める処分をなすのが相当である。よつて、保証を立てさせないで、主文のとおり決定する。(駒田駿太郎 沖野威 高山晨)